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最高裁判所第二小法廷 昭和52年(行ツ)40号 判決

上告人 淡路イチ

被上告人 佐伯労働基準監督署長

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人吉田孝美、同岡村正淳、同柴田圭一の上告理由について

労働者災害補償保険法上の遺族補償年金の受給権発生前から直系血族又は直系姻族以外の者の事実上の養子であつた者が右受給権の発生後養子縁組の届出をして右直系血族又は直系姻族以外の者の法律上の養子となつたときは、同法一六条の四第一項三号所定の「養子となつたとき」にあたるとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は、独自の見解に立つて原判決の違法をいうものであつて、採用することができない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 栗本一夫 大塚喜一郎 吉田豊 本林譲)

上告理由

原判決には、労働者災害補償保険法(以下単に法という)第一六条の四第三号の解釈を誤つた違法があり、その違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄を免れない。その理由は次のとおりである。

一、法一六条の四第三号の正しい解釈

(一)法一六条の四第三号は、受給権者が、「直系血族又は直系姻族以外の者の養子(届出をしていないが、事実上養子縁組関係と同様の事情にある者を含む。)となつたとき」を失権事由として規定している。つまり法は、失権事由としての養親子関係につき、法律上のそれと事実上のそれとを全く同列に規定しており、事実上であれ法律上であれ、要するに「養子」となれば失権するのであり、その「養子」が法律上のそれであるか事実上のそれであるかは、法一六条の四第三号の問うところではない。法律上の養子と、事実上の養子とでは、養親の親族との間の親族関係の成否や相続権の有無等における差異があるわけであるが、これらの差異は、完全に捨象されているのである。従つて、法一六条の四第三号の「養子」の概念は、法律上のそれと事実上のそれとを問わず、両者を包摂する統一的概念としての「養子」である。これが、法一六条の四第三号による失権の法律要件としての「養子」の概念である。だとすれば、事実上の養子であつた者が、正式な養子縁組の手続により法律上の養子になつたとしても、法一六条の四第三号の法律要件としての養子の意味においては、正式な養子緑組以前から既に同法にいう「養子」だつたのであるから、正式に養子緑組をしたからといつて、新たに「養子」になつた場合には該らず、引き続き養子であるにすぎない。つまり、法一六条の四第三号の法律要件上は、正式な養子縁組の前後を通じて、同一の状態の継続があるにすぎない。

右のような場合をも、新たに「養子」になつた場合に該るとするためには、養子縁組以前の事実上の養子の状態は、法一六条の四第三号にいう「養子」には該らないと解さなければならないが、それは明白に法一六条の四第三号に反する。もつとも法一六条の四第三号の「養子」の概念が、前述した法律上のそれと事実上のそれを含む統一的養子概念であることを否定し、これを「法律上の養子」と読みかえれば別論であるが、それは、法一六条の四第三号の文理に反する恣意以外の何ものでもない。原判決の養子概念は、法律上の養子概念に囚われ、問題が、法一六条の四第三号における法律要件としての養子概念の解釈であることを看却したものであるといわなければならない。

(二) 法一六条の四第三号所定の場合が失権事由とされる趣旨に照らしても、事実上の養子が同一養親との間で正式な養子縁組をなしたにすぎない場合は、失権事由に該らない。「養子」となつたときが、失権事由とされるのは、これによつて、新たな扶養者たる養親が出現し、被扶養利益の喪失状態(又は要扶養状態)が解消されるとみなされるからである。ところで、法一六条の四第三号によれば、事実上の養子緑組の成立によつても、要扶養状態は解消されるとみなされる。事実上の養子にすぎない場合は相続権もなければ、養親の親族との間の法定の親族関係もないのであるが、にもかかわらず、法律上の養子の場合と完全に同視され、類型的に、要扶養状態の解消があるとみなされるのである。従つて、「養子」となつたことが失権の根拠とされる根拠は、専ら、養親との間に事実上扶養関係が形成されるとみなされることにあるのであり、養親の親族との間の法的親族関係の成立如何は、文理上法一六条の四第三号の法律要件の中には含まれていない。

実質的に考えても、養親の親族との法定の親族関係の形成が、類型的に要扶養状態の解消をもたらす筈がなく、まして養親の死亡によつてはじめて具体化するにすぎない相続権の有無の如きは、現実の要扶養状態の解消如何と全く無縁なのであるから、失権の根拠になどなるわけがない。法一六条の四第三号も、明文上明らかに事実上の養子と法律上の養子の間に存する右のような親族法上又は相続法上の差異を完全に捨象し、両者を同列に規定しているのである。なお現実の扶養関係においても、事実上の養親子関係とは、そもそも、少なくとも扶養関係においては法律上のそれとの間に何らの差異のない実態が形成されている場合をいうのであるし、その間に仮に何らかの差があるとしても、法はその差異をも捨象しているのであるから、その扶養関係が、法律上の養親子関係に基くものであるか否かも、失権事由としての評価上意味のないことである。

法一六条の四第三号所定の場合が失権事由とされる趣旨が右のようなものであれば、事実上の養親子関係が法律上の養親子関係に進んだとしても、これによつて法一六条の四第三号の予定しているような要扶養状態の解消など全く生じない。同じ養親と養子との間の同一の扶養関係が継続するにすぎず、そこには、要扶養状態が解消されるようないかなる事態も生じないのである。従つて、本件のような場合にまで失権するのは、法一六条の四第三号適用の前提となる要扶養状態の解消がないのに、その受給権を剥奪することであり、著しい不正義を行うものといわざるを得ない。

(三) 法一六条の四第三号の、新たな失権事由の発生があつたとみられるか否かは、結局、抽象的に、事実上の養子と法律上の養子との差異を論ずることによつてではなく、あくまで、法一六条の四第三号所定の法律要件の新たな発生があつたか否かということによつて決定されるべきものである。而して法律要件としての「養子」概念とは、結局、事実上のそれであろうと法律上のそれであるとを問わない意味での、「扶養関係としての養親子関係」であるということができよう。

本件の場合、正式な養親子関係以前においても、事実上の養親子関係即ち扶養関係としての養親子関係は既に成立しているわけであるがこの段階における「扶養者としての養親」は淡路ハマであり、正式な養子緑組後も、「扶養者としての養親」は、依然として淡路ハマである。被扶養者たる「養子」は、もちろん、正式な養子縁組の前後を通じて同じ上告人である。従つて、法律要件上は、養子縁組の前後を通じ、同一の状態の継続があるにすぎず、新たに法律要件に該当するに至つたのでは断じてないのである。

このような場合に、一体どうして、正式な養子縁組を契機として、新たな扶養関係としての養親子関係が成立したことになるのであろうか。正式な養子緑組の成立は、しよせん同一の扶養関係としての養親子関係の枠組みの中において、法一六条の四第三号が度外視し、捨象している一般親族法ないし一般相続法上の相違をもたらすにすぎないのであり、法一六条の四第三号上の、養親子関係の枠組みそのものを変え、るものではない。原判決は、法一六条の四第三号の法律要件としての養子ないし養子縁組の概念の分析及び、それらが失権事由とされる実態を見失い、同一の扶養関係としての養親子関係の枠組み自体の問題と、その枠組みの中における、若干の一般法律効果上の相違を混同する誤りに陥つているものといわざるを得ないのである。

二、原判決に対する若干の批判

原判決は、本件のような場合が失権事由に該ると解すべき根拠として、第一に、正式な養子縁組に伴う〈1〉嫡出子たる身分の取消、〈2〉養親の親族との間の法律上の親族関係の形成、〈3〉相続、扶養等における法律上の関係の形成を、第二に、受給権発生後に事実上の養親子関係が形成された場合に、それだけで失権することとの均衡論をあげている。しかし右の論拠はいずれも理由のないものであり、価値判断の当否を離れても、論理的斉合性を欠くものである。以下にその理由の要点を述べる。

(一) 原判決の右第一の論拠は、結局は正式な養子縁組に伴う親族法上ないし相続法上の一般的法律効果における若干の相違を述べているにすぎないが、これらの相違は、前述のとおり、扶養関係としての養親子関係の枠組み自体を変えるほどのものではなく、また法一六条の四第三号が前提としている要扶養状態の解消を何ら基礎づけるものでもない。

就中原判決が、控訴人の指摘にもかかわらず、論理的に、現実の要扶養状態の解消如何と全く関係のないことの明白な、将来における養親の死亡の際の相続権の有無すら、失権の根拠としてあげていることに照らすと、原判決は、正式な養子縁組に伴う、親族法上又は相続法上の一般的法律効果の相違の検討から、直ちに短絡的に、法一六条の四第三号という、性質の異なる法規の法律要件たる「養子」概念の解釈の結論を導いたものというべく、論理的には飛躍も甚だしい。

(二) 受給権発生後の事実上の養親子関係の成立ですら失権事由となることとの均衡論もまた明白な論理的誤りをおかすものである。原判決はそもそも、受給権発生前から事実上の養親子関係にあつた者が、引き続き養親子関係が継続していても失権しないのは、受給権発生後に新たに事実上の養親子関係を形成した者が失権することとの対比で、不当であるかのように判断しているようであり、たとえば、原判決五丁目表九行目「……労災保険法の規定上やむを得ないことであるとしても……」との判示にそのことが窮われる。

しかし、法律上の養子縁組の場合であつても、受給権発生前からの引続く養子縁組関係は、失権事由とならないのに、受給権発生後のそれは失権事由となるのであり、事実上の養親子関係の場合のみを論難するのは、片手落ちである。法の規定は要するに、受給権発生時における状態を一律に要扶養状態とみなした上、その要扶養状態か、受給権発生後の身分関係の変動によつて解消されたとみられる場合を一律に失権事由として規定しているのであるから、仮に、年金を受給しているものが、等しく事実上又は法律上の養子縁組をなしている場合においても、それが受給権発生当時からの継続であれば失権せず、新たになされたものであれば失権するのは当然のことであり、この点においては、事実上の養子縁組の場合であろうと、法律上の養子縁組の場合であろうと変わるところはない。

結局問題は、受給権発生時の状態を基準として、その後の新たな身分関係の形成が新たな失権事由の発生と評価されるか否かということなのであるから、基準たる受給権発生の時点における法律状態が異なれば、結論は異ならざるを得ないのであり、受給権発生時の法律状態の相違即ち、一方は事実上であれ既に養子関係が成立し、他方には全くそれがなかつたという相違を抜きにして、結論を単純に対比するのは、論理的に誤つたものであるといわざるを得ない。

(三) 結局原判決は、法一六条の四第三号の規定しない新たな失権事由、即ち「事実上の養子が法律上の養子となつたとき」という失権事由を、解釈によつて創設したものといわなければならないものであるが、そもそも「養子」となつた場合が失権事由とされるのは、本来は、「未成年者」たる受給権者の場合を想定しているものと考えられるのであり、養親に扶養されるどころかむしろ養親を扶養すべき義務のみを伴うような成年者の養子縁組についてまで一律に失権事由としたこと自体には疑問が残るのである。従つて、法の解釈の努力が、結論の具体的妥当性を確保する方向でなされるべきものとすれば原判決の解釈は、その方向自体を誤つたものといわなければならない。

三、原判決は以上のとおり、いかなる観点からみても法一六条の四第三号の解釈を誤つたものであるところ、本件では甲一号証記載のとおり、原処分庁は、「本事案の争点となつた死亡労働者の生前から受給権者たる妻を含めて、淡路家の事実上の養子同様の事情にあつたことは十分認められる」と判断したような事実関係にあるのであるから、右の法解釈の誤りは、判決の結論に直結しているのであり、法一六条の四第三号の解釈の誤りは、明らかに原判決に影響を及ぼすものである。

よつて原判決は、破棄を免れないのである。

以上

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